「阿片の中国史」個人的ざっくりまとめ

p.47 一七二二年に記された阿片

初めて飲むときは無料だが、久しくすれば自己を忘れ、家は傾くも喫煙に赴く。徹夜もものともせず、淫欲を助ける。初めは楽しく、後には救いがたい。吸い浸りになれば、面皮は縮こまり、歯茎が露呈し、屍のように放心状態になり、また吸うことで安らぐ。しかし三年後には、死なない者はいない。

p.62「新商品」に生まれ変わった阿片

イギリスがやったのは、単なる阿片の輸出などではなかった。イギリスは産業革命以後の技術開発力を結集し、総力をあげて「新商品」を生み出したのである。

p.64 「新商品」と中国

中国では、「新商品」を前にして、ついにに阿片ブームに火がついた。贅沢で新しいもの好きな中国の上流階級は、画期的で高価な「新商品」に飛びつき、中国人好みの味を斬新な喫煙スタイルで楽しみ、夢幻の境地に見をゆだねて我を忘れたのである。

そのさまは、まさに旧態依然とした中国が、産業革命以後の世界の流れを知らず、欧米諸国の先進性に敗北したことを意味していたのではないだろうか。

p.133 一八四二年、「南京条約」に調印し、無条件降伏

イギリスが勝利して「南京条約」が交わされると、直後にアメリカから軍艦三隻を派遣して清朝政府に迫り、(中略)イギリスと同じ待遇を獲得してしまったのである。フランスもやって来た。

(中略)

それを見て、諸外国が殺到しはじめた。ロシア、ポルトガル、ベルギー、スイス、ノルウェー……。こうなると、蜜に群がるアリのようなものである。

p.87 香港に銀行がある理由

一八六五年三月、(中略)資本金五百万ドルを投じて香港に「香港上海銀行」を設立した。

(中略)

香港上海銀行」の最大の業務は、阿片貿易で儲けた資金を安全かつ迅速にイギリス本国へ送金することであった。

参考: 日米修好通商条約 - Wikipedia

アヘンの輸入は禁止する。もしアメリカ商船が三斤以上を持ってきた場合は、超過分は没収する。

p.141日米修好通商条約

日米修好通商条約」の第四条には(中略)

アメリカの商船がもし医薬用に認められた阿片許容量の三斤以上を持ち込もうとすれば、日本は没収してよいという意味だが、奇妙なことに、この条項は日本側から出した条件ではなく、アメリカが進んで言い出し、条項に明記した部分であったのだ。

参照: 世界大百科事典 - コトバンク

p.148 アメリカのプライド

建国以来、ピューリタンが多数を占めるアメリカの理想主義や宗教観からすれば、「毒薬」で儲けるのは多少なりとも自己欺瞞の感があり、大いにプライドが傷つくことだったのかもしれない。

p.149 ラッキーだった日本

アメリカのハリスが日本と「日米修好通商条約」を結ぶと、次いでイギリスも全権代表のエルギンがやってきた。エルギンは下田でハリスと会見し、「日米修好通商条約」の写しをもらい、ほぼ同じ条件で「日英修好通商条約」結んだ。ロシア、オランダ、フランスも同様の条件を結んだ。「阿片の持込禁止」はそれらに共通するものだった。

日本はついに阿片を押し付けられなかったのである。

p.150 日本と中国がたどる道

アメリカが真っ先に日本へやってきたのは、日本にとって「幸運な出会い」だっただけではない。阿片とは切り離して、欧米の高度な文明の優れたところだけを吸収する未来を約束されたことでもある。

それに引き換え清国の場合は、初めて触れた西欧諸国がまず阿片を持ち込んだうえに、一八五六年に阿片が合法化され、貿易取扱上の名称が「阿片」から「洋薬」に変わった

p.160 上海

ひなびた漁村だった上海は、南京条約による開港で、一夜にして大都会になった。

(中略)

上海が開港したばかりの一八四二年の人口は二十万人だったが、一九〇〇年前後には一〇〇万人になり、一九三〇年までに三百万人に膨れ上がった。

 p.204 撲滅された阿片

さて、中華人民共和国が誕生した後、阿片はどうなったのだろうか。結論から言うと、わずか三年間でほぼ阿片が撲滅されたのである。一九五〇年、中央人民政府は「阿片煙毒を厳禁する通令」を発布し、大々的な禁煙キャンペーンを開始した。

A Chinese opium house, photograph 1902 (public domain) - Wikipedia

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 「インターネット・ゲーム依存症」 岡田尊司 p.9

インターネット・ゲーム依存症は、覚醒剤や麻薬と同様、ひとたび取り憑かれてしまうと、生涯続く嗜癖となり、その人の人生を蝕み続ける。それは、まさに「現代の阿片」による、阿片禍というべき事態なのである。